2012年02月01日

マレーネ・ディートリッヒ「お母さん私を許せますか?」

BSアーカイブスだったかあなあ・・・。

永遠のヒロイン・その愛と素顔「マレーネ・ディートリッヒ・お母さん私を許せますか?」です。

子供のころからモノクロ映画が大好きでしたが、この人はなかなかエロチックなので、敬遠していたかなあ・・・。でも、すごい人です。まるで、映画のヒロインのような人生を送った人でした。

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映画がトーキーに入った1930年代初め、一人のスターが登場します。
ドイツ生まれのマレーネ・ディートリッヒ。妖艶な魅力で人を引き付けたマレーネ。
その人生は、様々な伝説で彩られています。

晩年のマレーネのパリでのインタビューで・・・。

「私に関する噂は、すべて間違っているわ。私は痩せる治療も、特別なダイエットもしていないし、ミルクのお風呂にも入っていない。『嘆きの天使』で私が演じたイメージを、みんなが追っただけ・・・。」

ドイツ映画1930年の嘆きの天使。この時マレーネ28歳、酒場の踊り子を演じます。これが、彼女の運命を大きく変えました。
嘆きの天使 [DVD]
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マレーネは、1901年ベルリン郊外に生まれます。父は警察将校でしたが6歳の時に病死、母は再婚しましたが、第一次世界大戦でその父も戦死。母と姉の三人家族となります。

母は働きながら、教育熱心に子供を育てます。しかし、第一次世界大戦後のインフレで、人々の生活は苦しくなっていました。
しかし、ベルリンは、カフェやキャバレーが立ち並び、享楽的でした。

家計を助けるため、母の反対を押し切って、キャバレーや劇場に立ちます。
22歳の時、ルドルフ・ジーバーと結婚、一女をもうけます。

28歳で、踊り子役で、「嘆きの天使」に出演。主役は世界的にも有名な、エミール・セニングス。この、セニングスを食って、人々に喝采されます。その姿は、退廃的でエロチックでした。

マレーネを抜擢したのは、監督のジョセフ・フォン・スタンバーグ。ユダヤ系のオーストリア人です。ハリウッドで注目されていました。

マレーネに、ハリウッド進出を強く勧めます。夫のルドルフの後押しもあり、1930年3月31日、ハリウッドのむけて出発。パラマウントと契約します。

アメリカ・ロサンゼルスでの単身赴任の新しい生活。成功する保証はありませんでしたが、希望に満ちていました。

そうして、「モロッコ」の撮影が始まります。スタンバーグとのコンビは最強でした。
モロッコ [DVD]日本語吹き替え版 / ゲイリー・クーパー (出演); ジョセフ・フォン・スタンバーグ (監督)
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1930年の「モロッコ」、酒場の女と外人部隊の恋、それは、「嘆きの天使」とほど遠い、洗練された演技になっていました。愛する兵士を追って砂漠を歩いていくラストシーン・・・。そのマレーネの存在感は、強烈な印象を与えました。

もともと美人ではなかったマレーネ。「嘆きの天使」では、太っていましたが、自分を作り上げることを学びました。自分を、光と影と、メイクを使いこなして作り上げ、最高級の美人になったのです。
 
新聞は、こぞって絶賛!!マレーネは、スタンバーグの元で演じられる喜びを感じます。

100万$の脚線美と称されたマレーネ。

間諜X27
間諜X27

「間諜X27」ではスパイを演じます。これもまた高評価を得ます。

マレーネはベルリンに戻り、一人娘を連れてアメリカへ・・・。夫はベルリンに、マレーネ公認の女性と残ります。

そして、スタンバーグとのコンビは、「上海特急」で絶頂を迎えるのです。

スタンバーグとは、いつしか男と女の関係になっていましたが、マレーネは男の人がいても夫とは親友の関係でした。マレーネはいくら稼いでも使ってしまうので、夫はマネージャーをしていました。仕事がなくなっても、暮らしていけるように・・・。そして、マレーネはいつも夫に相談していました。
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「上海特急」でのマレーネの美しさは、絶賛されます。この作品で、マレーネはハリウッドの大スターとなりました。ハリウッドに来て2年、自分をどう美しく見せるか・・・。それを知ったのです。

しかし、スタンバーグが用意する役は、いつも妖艶な女性。彼女は、生涯セックスシンボルというイメージが付きまといます。

80歳を過ぎたマレーネが、自分の作品について語っています。

「『モロッコ』は、私にとっては英語で演じる初めての映画だったから、難しかった。絶対にスタンバーグに恥をかかせたくなかったの。」

ラストシーンについてはいろいろ書かれましたね。

「私が高いヒールを履いて、スカーフを飛ばされながら、砂漠に兵士を追いかけて行ったと書かれたわね。これは、監督の知性と女優である私への侮辱だと思うわ。

私は、裸足でミニスカートをはいていたのに、見る人は、現実ではなく、勝手なイメージを持つのね。俳優というものは、演じるものでしょ。俳優と演じた役を混同するのはばかげているわ。

殺人者の役を演じるために殺人者にならなければいけないの?
椿姫を演じるため、ラ・ボエムを歌うために肺結核にならなければいけないの?
『嘆きの天使』では、ローラを演じるために、私は下品な姿で歌わなければならなかっただけ。」

上海特急後、ベルリンに帰ろうとした時、夫が政治状況が良くないと反対します。

1933年1月30日、ナチ党が全権掌握。
ナチ政権の誕生は、ドイツ市民の生活を根底から覆すものでした。

ユダヤ人の迫害
文化人の市民権はく奪
言論統制の日常化


「嘆きの天使」は、退廃的で低俗であると上映禁止。海外で活躍する文化人にも帰国要請がかかります。

1934年秋、「西班牙協奏曲」の製作が決まります。
クランクイン前のスタンバーグのコメントは・・・。
「これが、二人の最後の作品になるだろう。」

マンネリ化を解消するための発言でした。
マレーネは、この作品が一番好きだといいます。「美しく撮れているから。」
一世風靡↓コンビの解消は、私的な関係の解消でもありました。

2人の別れは、ドイツで喝采!!
「みだらな役をマレーネにさせたユダヤ人監督だ!!」宣伝大臣ゲッペルスは、世界的大スターのマレーネが、ドイツに帰りドイツの為に映画に出ることを要請します。

1936年の手紙には、破格の条件が提示されていました。
その頃、アメリカでは、マレーネ人気に陰りが・・・。

1937年”切符売り場の疫病神”と非難されます。

しかし、ドイツの誘いを断ります。それは、本当にナチスのことを嫌っていたから。母親への愛も、不自由なく暮らせる富も、それを退けるには大変強固な意志が必要でした。

「ハリウッドではいらなかった」のだから。

ナチの歪んだ理想主義が、家族を分断します。マレーネと夫は、ドイツを離れるように母と姉を説得しますが、二人は高揚感に酔うナチを気にも留めませんでした。

1937年オーストリアであった時に、アメリカで一緒に暮らすことを勧めますが、母が拒否。

1939年マレーネに、アメリカの市民権が認められます。
ナチス・ドイツにNOをたたきつけたのです。

1939年「砂塵」へ出演。
砂塵
砂塵
これは、それまでのマレーネとは違い、キップのいい女性の役でした。今までは、男を破滅させる役が多かったマレーネ、今回は惚れた男を守る役でした。

新しいマレーネ、映画は大ヒット。これで、アメリカ人として受け入れられます。

ヨーロッパでは、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻、世界を巻き込んでの戦争が始まりました。

1940年、ドイツはフランスを占領、文化人は・映画人はアメリカに非難します。この中に、俳優・ジャン・ギャバンがいました。
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ジャンは、フランスを代表する俳優でした。
「この男は、私が愛さなければいけない」
英語を教えます。
ジャンもまた、たくさんのカードや手紙、贈り物をします。

マレーネは、生まれて初めて見返りを求めない恋に陥りました。
好きになること以外、必要のない関係でした。

ジャンのことについてマレーネは・・・。

「私にとって昼も夜も 心奪われることだった」  のです。

1941年12月日米開戦を機にドイツもアメリカに宣戦布告。

ジャンは祖国解放のため自由フランス軍に。2人の生活を捨てるジャンを止めることはできませんでした。

1943年春、マレーネはジャンを見送ります。ジャンは戦場からもマレーネのことを愛し、手紙を送りました。愛する人が、戦地へ。。。
「映画なんて作っていられない!!」と、戦争に参加します。マレーネは、女性にも戦う権利はあると思っていたのです。

慰問の許可を得て戦場へ。。。

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最悪の状態でも、前線まで歌いに行きました。

1944年ノルマンディー上陸・・・それは、ドイツが戦場になることを意味していました。

マレーネが前線に慰問して出会った歌・・・「リリー・マルレーン」それは、祖国ドイツの歌でした。
連合国軍は、ヒトラーのいるベルリンに集中攻撃、そのベルリンには、母が暮らしていました。

マレーネは、アメリカ軍がどんな都市を攻撃するときも協力し、どこにでも歌いに行きました。それが、たとえベルリンでも。。。

一刻も早くヒトラーを止めるために。

母が生きている確率はわずかでしたが、兵士たちにベルリンはどうなっているのかを訪ねまわりました。ドイツ軍兵士の戦意を喪失させるためにラジオ放送でドイツ語で「リリー・マルレーン」を歌いました。

「リリー・マルレーン」は二つの陣営で流れた曲です。
この歌を人間同士を繋ぐ象徴と思っていたマレーネは、このドイツの歌を、連合国の兵士も塹壕の中で、聞いて、また、歌いました。

1945年5月ヨーロッパでの戦いが終わります。大切な母は爆撃の中、生きていました。
9月、ベルリンで母と再会。それは、あの別れから8年ぶりのことでした。一緒に住むように勧めるマレーネ。しかし、母はベルリンで住むという。

その2か月後この世を去ります。

そうして、戦争が終わったということは・・・ジャンとの再会が待っていました。
パリのホテルで生活を始めた二人。
ジャンの夢は、2人で映画を作り、結婚して子供をもうけることでした。

しかし、2人の間にいさかいが絶えなくなるのです。戦争に生きて帰ってきてしまったジャン。戦争がジャンに負い目を持たせてしまったのです。度重なる衝突・・・。

ジャンは2人で映画を撮りたかったが、40歳を過ぎたマレーネに、OKを出すプロデューサーはいませんでした。

願いがかなった2人は、「狂恋」で共演します。戦後第一作目でした。
狂恋 [DVD] / ジャン・ギャバン (出演)
狂恋 [DVD] / ジャン・ギャバン (出演)

この映画同様、現実でもすれ違う二人。

マレーネがジャンと分かれる決心をしたのは、ジャンが結婚を望んだからでした。

マレーネがハリウッドを離れていた間に、イングリット・バーグマン、マリリン・モンロー、エリザベス・テーラー、ハリウッドでは新しいスターが次々と誕生していました。

50歳を過ぎたマレーネ、年齢的に主役がなくなりました。

たまたま、ラスベガスのショーで歌う機会が訪れます。

スクリーンの女優がショーで歌う・・・。抵抗を感じていました。

「誰がお金を払って見に来るの?」
しかし、ショーは、大成功の大絶賛!!

セリーヌ・ディオンが登場するまで、ラスベガス史上最高のギャラを稼ぐ女性となりました。

アメリカ各地でも公演。それを見に来たのは、戦場でマレーネの慰問を受けた男たちでした。マレーネは、自分の居場所がここだと確信しました。

「私は、映画の仕事よりショーを好んでいる。理由は、別の人格を演じるのではなく、私自身でいられる自由があるからよ。
歌の仕事は、大きな幸福をもたらしてくれるわ。さまざまな場所へ旅することもできたし、生きた観客相手に歌い、彼らと話すことは、乾いた映画の仕事とは比べられないものなの。
撮影所に素晴らしい拍手の音は存在しないの。
もし、幸運に恵まれて、新聞の批評が拍手喝采をしても、私たちには聞こえないわ。」

このショーは、バート・バカラックの手により、完成されたものになっていきます。

世界でもショーをするマレーネ。
1960年、祖国ドイツで公演が行われます。
しかし、連合国軍を支持していたマレーネに、拒否反応を示す人も少なくありませんでした。

そんな批判の中ベルリンに・・・終戦から15年がたっていました。
新聞にも、マレーネ批判の投書が・・・。
マレーネは、動揺しました。実は、新聞以上のことが起こっていたのです。

劇場前には攻撃する人が山のように集まり、卵を投げる人も・・・。
コンサート会場に爆弾を仕掛けるという脅し・・・。

私は歓迎されていない。。。

その後、「ニュールンベルグ裁判」に出演。

ニュールンベルグ裁判 [DVD] / スペンサー・トレイシー, バート・ランカスター, リチャード・ウィドマーク, マレーネ・ディートリッヒ, ジュディ・ガーランド (出演); スタンリー・クレイマー (監督)
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ナチス・ドイツの将軍の妻の役でした。ナチスのやった過ちの凄惨な事実を知らないという、自分の信条とは真逆の役でした。

そんな中、ベルリンの壁ができます。

1964年ポーランドで公演したとき、チェスワフ・ニエメンと出会い、彼の曲を譲り受けます。

そこに、ドイツ語で歌詞をつけました。


「お母さん 私を許してくれますか?

  お母さん まだ忘れてはくれないのですか?

 お母さん 私を許してくれますか?
   
   私のしたことを



 故郷は 私を許してくれますか? 

   故郷は まだ忘れてはくれないのですか?

 故郷は 私を許してくれますか?
   
   私のしたことを



世界各国を回るようになってパリに移り住みます。

「栄光というものは、もろ刃の剣よ。それは、幸せも心地よさも温かさももたらさないもの。
みんなが想像するほどには私にとって栄光は、いつもとりわけ重い荷物だったわ。」

1976年、夫ルドルフ・ジーバー死去。
その5か月後ジャン・ギャバン死去。

ジャンの公証人がやってきます。「すべてをあなたに返してほしいと・・・」
そこにあったのは、マレーネがジャンにプレゼントしたすべてのものでした。

1989年11月9日ベルリンの壁が壊されたとき、マレーネはいつになく興奮して、
「素晴らしいわ!!私は生粋のベルリンっ子よ。私の街は自由よ!!」
それまで、マレーネはベルリンのことは話したことがありませんでした。

1992年5月6日、パリのアパートで永遠の眠りにつきました。その遺体は、ベルリンに運ばれ・・・その葬儀には、市民が列をなしました。

2002年ベルリンの名誉市民となります。

今は、母と同じ墓地に眠っています。

そして、戦後もベルリンに帰ることはありませんでした。

「お母さん 私を許してくれますか
    お母さん まだ忘れてはくれないのですか・・・」
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posted by ちゃーちゃん at 12:37| Comment(0) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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